宗教はよく世界平和を主張しては、自分達を善に見せ掛け様とするが、
では何故わざわざ、世界を宗教で分断するのだろうか?
宗教で分けなければ、宗教間の争いも発生しない。
この世界から宗教が消滅すれば、その分 世界は平和になるだろう。
ちなみに、宗教の言う「世界平和」とは、
「自宗教による世界支配」の事だ。
明らかに宗教が存在しない方が、人間社会は平和になる。
にもかかわらず、何故 人間社会には宗教という麻薬が蔓延しているのか?
それは、人類があまりに幼稚で未成熟で無知だからだ。
人間が宗教(神・仏・悪魔・宇宙人・科学・哲学 等)に求めるもの、
(神を信じる事が宗教では無い。存在しない「正解・正しさ」が存在すると妄信する行為が宗教)
それは「正しさ・支配(管理)・庇護」だ。
「それ」は子供が親に求めるもの。そして、下位の猿がボス猿に求めるものだ。
(簡単に答えを言ってしまえば、宗教とは猿の本能だ。
猿が宗教を信じているという意味ではなく、動物の本能と人間の未熟な知識(未熟な世界解釈)が混ざり、生み出されたものが宗教)
人間はどうしても猿なので、
数万年程度 背伸びして人間なるものを気取ってみても、
根源的思考は猿のままだ。
幼稚な個体(自力で思考出来る知性に到達していない人間)程、原始的本能が強く働き、ボス猿(庇護してくれる存在・正解に導いてくれる存在)を強く求める。
しかし、人間のボス猿(リーダー)は しょせん人間(猿)の一匹に過ぎず、
解決出来ない問題が山積みになる。
(猿の時代は問題も単純で、ある程度 解決出来た)
そこで生み出されたものが、理想のボス猿である「神」だ。
精神的に自立出来ていない者は、本能的に宗教で自立(精神的安定)を補おうとする。
(経済的自立 = 精神的自立 では無い)
自分で思考出来ない人間。
自分で判断出来ない人間。
自分で決断出来ない人間。
宗教は「見せ掛けの正解」を提示し、
それを信じさせる事で、思考を放棄させ、
宗教に依存させる。
「正解」を妄信する人間は思考を放棄する。
それが楽なので。
宗教は思考を放棄させ、無知な人間(思考を停止した人間)を量産する。
「正解」を妄信する人間は、自分で正解に辿り着く努力を怠け、
正解を持っていると見せ掛けている宗教に媚びへつらい、「答えのおこぼれ」を得る事に人生を捧げる。
切り株の前で、ウサギがその切り株に激突する事を祈る(有料)だけの人生を送る事になる。
「ウサギ(利益・幸福)来い!ウサギ来い!ウサギ来い!ウサギ来い!ウサギ・・・」
人間は彼等を「宗教家」と呼んでいる。
彼等は「切り株にウサギが激突する方法(正当な努力から逃げ、利益を得る(かすめとる)方法)」を、「修行・秘術・作法・儀式」などと呼んでいる。
宗教が蔓延する程 思考を放棄した人間が増え、
思考しない人間が増える程 宗教は繁栄する。
という悪循環。
やがて人類は問題を解決する事が出来なくなり、破滅に向かう事になる。
聖書をパラパラと読んだ事があるが、
虫唾が走る程、人間の傲慢・悪意・無知に満ちた書物だ。
あんな物を読んでいる内は人類社会が平和になる事は無い。
人間の作る創作物は、作る人間の知能レベルを超える事は出来無い。
人間は蝶になったかの様な夢を見る事が出来るが、
蝶は人間になる夢を見る事は出来無い。
推理小説の名探偵は犯人と同一人物(創作者の自作自演)であり、謎を解き明かしている訳では無い。
人間の主張する神は「人間そのもの」であって、「人間の知能を超えたもの」では無い。