国家や宗教は「道徳教育」に労力を費やす。
それは「道徳教育」という名称(名目)の「奴隷製造教育」であり、
「疑問を持たず(疑い無く)服従する奴隷」を製造するという利益があるからだ。
道徳教育とは「国家や宗教に盲目的に服従する事が正しい」と信じ込ませる古典的な洗脳手法。
「9割の正しさ」の中に「1割の服従(盲従)」を組み込み、
さも「1割の服従」も、正しいものであるかの様に錯覚させる。
(「皆で協力し合って生きて行こう」の中に、
「神 天皇 為政者 体制 = 善(絶対的に正しいもの)」
「全体の為(と見せ掛けた為政者の利益の為)に犠牲になる事 = 善」
「信じる(考えない)事 = 善、美徳」
「疑う(考える)事 = 悪、醜い行為」
「従う(自分の考えを放棄する)事 = 善」
「従わない(自分で考え行動する)事 = 悪」
などを組み込むのが基本。
洗脳道徳の本質(目的)を抜き出すと、「考えるな!従え!」となる)
彼等は「それ」を愛国心や信仰心と呼び、本質(本当の利益)から目を逸らさせる。
真に「道徳」を教育したい(理解させたい)のであれば、まずは、
「これが道徳だ」と信じ込ませるのではなく、
「何故それを道徳に見せ掛けたいのか?」を教育する対象に考えさせなければならない。
では、そもそも「道徳」とは何なのか?
道徳の定義とは とてもあやふやで曖昧なものだ。(だからこそ洗脳手法としてよく利用される)
それは、現在の人類がとても原始的で、
「人間は意志や理性で意思決定している」という幻想に支配されており、
「人間が感情や感覚と呼んでいる本能」が全く理解出来て(見えて)いないからだ。
洗脳道徳を排除して道徳を見ると、
「集団を維持する為のバランスをとる原始的本能 及び それぞれの集団(社会)歴史から生み出された集団維持規範」
を人間は道徳と呼んでいるが、
困った事に人間は、「自分達(人類)はとても高度な生物である」という自己満足(猿の快楽)に酔い痴れていて、
高度な生物の規範は高尚なものでなければならない。という幼稚なプライドが道徳や倫理を無駄に装飾し、見えにくくしてしまう。
それがまた洗脳道具としての使い勝手の良さに拍車を掛けてしまう。