多数決を民主主義と信じ込んでいる人間もいるが、
多数決は思考(問題解決)の放棄であって民主主義では無い。
人間は、知能の低い個体程
「人類は高い知性を持って(に到達して)いる」
と何の根拠も無く妄信しているが、
現在の人類は
「人間の方向に歩き出した猿の一種」
に過ぎない。
だから「答え」になど全く到達しておらず、「答え」を持っている人間も存在しない。
しかし人間は(思考する事に適していない)猿なので、何も考えずただ楽をする為に「答えを持っている人間(または存在)」を探(捜)す。
その結果、
「答え」を持っている様に見せ掛けている人間
「答え」を持っていると思い込んでいる人間
などに問題解決を委ね、問題を解決した様な気になる。
それで問題が解決されないとしても、
選ばれた人間(集団)が出来無いのだから、他の誰にも出来無い(筈だ)
と、前提条件(人選)が正しいのどうか ろくに検討もせずに結論付け、思考を放棄しようとする。
(一部の人間だけで多数決を取った所で、それは本当の意味での多数決では無いが、人間は「それ」を多数決と呼ぶ)
人間が多数決に依存するのは、人類が明確な答えに到達出来ていないからだ。
答えが理解出来ていない人間で多数決を取った所で、意味など無い。
「皆で決めた事」という大義名分(言い訳)を得る為の作業でしかない。
皆が理解出来ているなら、多数決を取る意味も無い。
多数決に依存している内は、人類は その問題を解決する事が出来無い。(解決する気が無い)。
問題が発生した時、人類が選択すべきは多数決では無く、
民主主義の根源である
「(立場・属性 等に関わらず)出来るだけ多くの個体に問題解決(試行錯誤)させる」
事だ。
(民主主義 = (立場・属性 等に関わらず)出来るだけ多くの個体に問題解決(試行錯誤)させる事
と説明されても良く解らない人間もいるかもしれないが、
そもそも何故、
今までの様に「一部の人間」だけでは無く、「全ての人間」に主権を持たせなければならないのだろうか?
民主主義は「権力の暴走の抑止力」と捉えられがちだが、それは民主主義の基本条件・準備段階に過ぎず、民主主義の根源ではない。
権力(役割)の正常化の後に民主主義の本質は発揮される)
そうやって少しずつ問題解決の糸口を掴(つか)み、
試行錯誤・議論を尽くし、「答え」に近付いていくしか無い。
事実、人間はそうやって今まで生き延びて来た筈だ。
多数決で何度も失敗を繰り返し、最終的には(限界が来るとようやく)民主主義で答えを見いだす。
もうそろそろ「多数決の失敗」の部分は卒業してもいいのではないだろうか?
本当の(実質的な)民主主義の為には、猿の時代には無かった
「自由や平等、人権」
などの人間的社会基盤が必要となり、
それらを行使する為には
「知識や経験、冷静さ(客観性)、倫理観、道徳心」
などが必要となる。