理性と本能

 本能は目的を 理性は達成を

人間は理性と本能が全く違うものだと認識しているが、
理性と本能は同じものであり違うもの。

理性と本能は同じ種類に属していて、役割が異なるものだ。

人間(生物)とは遺伝子が作った機械であり、人間自体には意志も目的も無い。
生物は遺伝子が生み出す命令に従って動くだけ。

まず生物の脳が、周囲や自身の情報の変化を認識した時、
人間が本能や感情などと呼ぶ反応(命令)が生み出される。
その命令は原始的で単純。

その命令(本能)を実現させるためのコントロールプログラムを人間は理性と呼んでいる。

理性も本能もどちらも本能の一種。
本能とは根元的欲求であり、
理性とは本能を抑制し目的までの道程を判断する監視者の様なものだ。

両者は敵対していると見なされる事が多いが、実は同じ目的を目指す協力者だ。

 

本来 協力関係にある両者が何故 敵対関係になってしまうのか?
それは本能の欲深さや幼稚さ故だ。
本能が反応し、容易に実現出来るものであれば何の問題も無いが、
容易に実現出来ないものも望んでしまう。
すると人間が理性と呼んでいる本能が働き始め、
それは不可能だと却下するか、
それを実現する為の複雑で労力を要する手順を提示する事になる。

原始的本能はとても幼稚で、
いかに楽をして目的を満たすか を優先しようとする為、
理性の判断が気に入らない。

目的達成が困難なのは自己の能力不足以外の何物でもないが、
『求める欲望が達成出来ないのは己の能力不足ではなく、
 理性が邪魔をしているからだ』
と、責任をすり替え、自分を守ろうとしてしまう。

理性と本能が戦い始めた時、
人間はようやく本能と理性を認識し始めるが、
本能理性は常に働いている。
そもそも本能理性の働きを人間は思考と呼んでいる。

本能理性が戦っている時、
知識や経験が少なく知能の低い個体程 原始的本能が優位に働き、
知識や経験が多く知能の高い個体程 理性が優位に働く。

 
人間社会にもこの影響は強く現れる。

本能優位な個体が多い程、自己本位が優先され、争いや戦争が多くなり、

(この時、原始的本能が生み出す無秩序状態を無理やり力で抑制しようとして原始的手法である独裁(ボス猿制度)が強くなる。それを利用して独裁を達成しようとしたり、独裁を維持しようとしたりもする)

理性優位な個体が多い程、複雑高度な全体思考がバランスを取ろうとし、穏やかな社会となる。