人間は同じものを違う名前で呼ぶ。

自分が理解出来ている現象を

必然・当然・自然・秩序 等と呼び、

自分が理解出来ていない現象を

偶然・不思議・不自然・奇蹟・混沌 等と呼んでいる。


手品師が、手品を披露する。

それに対する知識やそれを見抜く目を持っていない人間には、その現象は魔法や奇蹟の様に映るが、それを理解出来ている人間から見れば、それはただの手品(当然の結果)に過ぎない。


地球を奇蹟の星、生命が生み出されたのは奇蹟、と主張する人間がいるが、

この世界には『原因と結果』が存在するだけであって、奇蹟など存在しない。



月は月にしかなれないし、

太陽は太陽にしかなれないし、

地球は地球にしかならない。

生命が誕生したのも、奇蹟でも何でもなく、

その材料が存在し、その条件が揃った結果に過ぎない。

例えば、朝起きて、カップにミルク・砂糖・インスタントコーヒーを入れ、お湯を注ぎ、かき混ぜる。

「なんと奇蹟の確率でコーヒーが出来た」

とはならないよね。出来て当たり前だ。

結局は、理解出来ているか、理解出来ていないか、の違いがあるだけだ。



(人間の概念に 偶然・不思議・不自然・奇蹟・確率・可能性 等があるが、これらは現実には存在していない。

これらは現段階の人間の知能があまりにも低すぎる為、認識出来ている現象 の因果関係を論理的・科学的に説明出来ない人間が暫定的に使っている道具だ。

例えば「失敗」という概念。

それは「行動の不正解」ではなく、「予測思考の不正解」な訳だ。

「こうすれば実行可能な筈」という計算が間違っているのだ。

その計算・行動の正解(結果)が生み出されているだけであり、この世界に失敗は存在せず、正解しか存在していない)



「生物」と「物質」も同じものだ。

生物が物質で出来ている。という事ではなく、人間が生物と呼んでいるものも、物質と呼んでいるものも、どちらも反応で動いているに過ぎない。

人間の知能で、

反応がある程度予測可能な物を物質と呼び、

反応が予測困難な物を生物と呼んでいるだけ。



人間は「自分の思考の根源」を自分で選択・決定する事が出来ない。


人間は自分自身で「自分の価値観」を決める事が出来ない。

何が好き 嫌い。

楽しい 楽しくない

やりたい やりたくない

なりたい なりたくない

欲しい 欲しくない

綺麗 汚い 美しい 醜い

可愛い 格好いい 上品 下品



人間が感情と呼んでいる脳の反応も人間は自分では決められない。

喜び 苦しみ

幸せ 不幸せ

願望 希望 感動 絶望

虚栄心 出世欲 優越感 劣等感

関心 無関心



勿論、人間(生物)は単一の感情に従い行動している訳ではなく、

周囲の情報(環境)や、自身の身体的情報の変化に原始的本能が反応し、

人間が理性・自制心・良心・良識・倫理観・道徳心などと呼んでいる「原始的本能を抑制する本能」などが、

押し合い圧し合い(葛藤)しながら行動を決定している。

(古典で言えば「自分の中の天使と悪魔」)




人間は自分の意志でものを見ているのではなく、脳が見ろと命じたものを見ているだけだ。

例えば、本屋に入っても人間は全ての本を吟味したりはしない。

そこで「自分の脳の嗜好(偏り)」を見る(知る)事が出来る。

「自分の脳・遺伝子は何を求めているのか。何故それを求めているのか」

それは人間の人生全てに表れている。

TVやインターネット、人間や環境。

人間が見ているのは「世界の一部」だけだ。



例えば目の前にある小物を持ち上げてみよう。

簡単に出来るだろう。


では次に、自分の目玉をえぐり出してみよう。

まぁ、出来ないだろう。


「自分の目玉をえぐり出す」は、物理的に不可能な事では無い。

しかし出来ない。

むやみに自己を傷付けてはならない。とプログラムされているからだ。

例えば、自分の指を一本握り、へし折る。

すると激痛が発生する事になるが、

人間自身は痛みを発生させるかさせないかを選択する事は出来ないし、どの程度の痛みを発生させるかを選択する事も出来ない。

それを決めるのは脳であり遺伝子だ。


「何故生きるのか?」

そうプログラムされているからだ。ただそれだけ。


(無理矢理、自分を傷付けたり、自死を選択しても「意志の証明」にはならない。その選択はやはり反応に過ぎず、自分自身で決定したものではないからだ)


人間は「自由」という言葉や概念を好むが、自由とは「奴隷」の事だ。

人間(生物)の脳が不自由を感じる(判定する)と、脳は人間に「自由になれ」と命じ、

人間はそれに従う。

そして自由が達成されると、人間が解放感・達成感・充実感・満足感・幸福感 などと呼ぶ「ご褒美」が与えられる。

その逆に、脳・遺伝子の方針とは逆の選択をしてしまうと、人間が苦痛・不安・恐怖・絶望 などと呼んでいる罰が与えられる。

人間の人生とは、主人である遺伝子の為に芸を続ける犬の様なものだ。

自由というものが「拘束・制限されていない状態」を指すなら、

本当の自由とは、遺伝子から解放され、生物・物質である事から解放され、何も欲求が存在しない、すなわち無の状態という事になるだろう。

「欲求」が存在すると、そこには命令が存在し、自由では無いからだ。



人間(生物)とは、遺伝子が造った機械であり、自分とはAIに過ぎない。

人間が機械やコンピューターを作り、仕事をさせる様に。

人間がやっている事は遺伝子の物真似だ。


遺伝子には意志や目的があるのかと言えば、それも無い。

遺伝子の根源には「物質の性質」が在るだけ。

この世界には「意志や目的」といったものが存在していない。

例えば、縄文人

「よし!携帯電話を作ろう」
「火星まで行けるロケットを作ろう」

などと考えない様に、この世界の全ては「規則正しく行き当たりばったり」だ。

この世界の全ては規則正しく反応を繰り返しているだけであり、分岐点が存在していない。


宇宙人や、人間から見て神の様なものが存在していても、やはり「それら」も反応で動いているに過ぎない。