「許し」で失われるもの

薄っぺらい人間がよく

「愛とは許す事」「恨み続けても意味が無い」

などと口にするが、

「許し」は愛ではないし、愛の反対は 恨み憎しみ でもない。


「許す」とは「諦め(苦しみからの逃避)」であり、「自己満足」に過ぎない。


本当に「愛」があるのであれば、「過ち」を許す(諦める)のではなく、

「何故その過ちが起こったのか?」

を解明し、

この世界に「同じ過ちの発生」を許さない事だ。


しかしその問題を解明解決する能力に達していない人間は、苦しみから逃れる為に「許す」という誤魔化しが唯一の正解・美徳であるかの様に主張し、

「許すという快楽(寛大な自分)」に酔い痴れる。



そもそも、何の役にも立たないのであれば何の為に、人間が「怒り・恨み・憎しみ」と呼ぶ感情は生み出されるのだろうか?


怒り・恨み・憎しみ などの反応(感情)は、

「(大抵の場合、その人間の中で)取り返しのつかない過ち」

に対して生み出される。

それは、「単体(狭い範囲)」で見ると、取り返しがつかないのだから、「その感情」を持ち続けても無意味な様に見える。

しかし、「全体(広い範囲)」で見ると、怒り・恨み・憎しみ といった感情は、

「その問題」を強烈(強制的)に見つめさせ、分析・解明し、再発を防ぐ為のエネルギーを生み出す。




(ちなみに、宗教がこの言葉(概念)を多用するのは、問題を解明解決させない事で神(宗教)に依存させる為。

(解決出来ない問題に直面すると、人間は想像上の都合の良い存在に問題を丸投げする)

そして、その苦しみを取り除いたのが「神(宗教)の力(おかげ)」であるかの様に見せ掛ける為だ)