生徒が0点(落第点)を取る時、
それは同時に、
その生徒を教えている教師(コーチ 上司 等)の授業の点数も(その生徒(教師)からすれば) 0点(落第点) だ、という事を意味している。
しかし、人間(教師や上司)というものは、他人(生徒や部下)に点数をつける事には積極的だが、
自分自身に(客観的に)点数をつける事には とても消極的だ。
生徒を怒鳴ったり殴ったりしている指導者のほとんどは、
「自分(の指導)は100点だ」
と思い込んで(思い上がって)いる。
自分は100点の指導をしているのに、生徒が100点ではないのは、「生徒の怠慢だ」と、責任の全てを生徒に押し付けている訳だ。
それが自分にとって一番都合が良く楽だからだ。
もし100点の指導が出来ていれば、
生徒は100点の成果を上げているだろう。
しかし困った事に、能力の低い人間程 自分を客観的に観察する能力も低いので、
生徒の結果が低いのは「自分の指導能力が低いからだ」という事に気付けない。
弓道の世界に「正射必中」という言葉がある。
正しく射てば、必ず中(あ)たる。
つまり、中たらない(結果が悪い)のは、
自分自身が正しく射っていない(正しい手段を選択出来ていない)からに他ならない。
「生徒の指導」より、
「自分の感情を発散する事に夢中」な指導者がいる。
自分の未熟な指導力を棚に上げ、自分の思い通りにならない事に苛立ち、その怒りを発散する為だけに 喚き散らし、怒鳴り散らし、暴力を振るう。
その指導を受けた人間は、後輩(部下)に全く同じ指導をしようとしてしまう。
「集中しろ!」「冷静になれ!」「気持ちで負けるな!」
自分の感情を全くコントロール出来ていない人間が、感情のままに喚き散らす。
何の意味があるのだろうか?
人間は、相手の口先の言葉を見ているのではなく、相手の発する情報の全てに影響を受けている。
自分が見えていない人間は、他人も全く見ていない。
世界的指導者(又は偉人等)に学ぼうとする指導者(人間)達がいる。
しかし、学ぶべきは「指導論理」では無く、
その人間の「それに対する姿勢」であり、
その人間の「人生に対する姿勢」だ。
その姿勢を学ばずに、目に見える表面の論理だけを物まねした所で、その指導力を得る事は出来無い。