日馬富士の引退会見を何気無く見ていて気になったが、
何故か、ほとんどの人間は「礼儀」というものを
「自分より上の立場の人間に向けるもの」
だと思い込んでいる。
礼儀に上下関係は全く関係無い。
本来「礼儀」とは、『(自分自身も含めて)全て』に対して向けられるものだ。
自分より上の人間に対しては媚び諂い、
自分より下の人間に対しては見下し軽んじる。
それは猿(動物)の行動(本能)であって礼儀では無い。
(人間はどうしても猿なので、上下関係を外して思考したり、物事を見る事がとても苦手だ。それほどに上下関係という猿の本能は強力に人間の思考を支配している。ほとんどの人間はそれを自覚する事すら出来ない)
日馬富士の言っている「礼儀」とは礼儀ではなく、ただの猿の本能である「服従心」の事だ。
日馬富士は「礼儀」を正したかったのでは無く、「服従心」を叩き込みたかっただけ。
例えばチンピラが、
「○○君がしゃべってるだろーが!」
と下の人間を殴る。
例えば教師が、
「校長先生がしゃべってるだろーが!」
と生徒を殴る。
それらと同じ。
礼儀では無く、猿の上下関係に過ぎない。
上下の関係とは無関係に、相手を対等平等な存在として敬意を払い、行動する。
それを他から見た時、「その人間の行動」に品や粋を感じ、
人間は「それ」を礼儀と呼ぶ。
(対等平等に接するとは、なれなれしく接するという意味では無い。当たり前の事だが、人間は自分自身を最も大事に扱っている。その自分自身と同じ様に相手に接するという意味)
はっきり言ってしまえば、日馬富士は「礼儀」というものを知らない。
知らないから、他者に教える事も出来ない。
ほとんどの人間がそうであるように、日馬富士も
「力で服従させる=礼儀」
「上の人間に媚び諂う行為=礼儀」
だと認識している。
礼儀とは要求するものでは無く、自身から発するものだ。
(最近流行りの(いつの時代も)周囲や相手に対するアピール、パフォーマンスでは無く)
礼儀という概念の世界で生きて行きたいのであれば、
「敬意を払えっ!」「礼を尽くせっ!」では無く、
相撲という狭い世界の中で上にいたとしても、日馬富士自身は下の人間に対しても礼儀を尽くさなければならない。
人間としては対等なのだから。
(王族や国家のリーダーは国民に対して、上司は部下に、教師は生徒に、親は子に、お互いに礼を尽くさなければならない。礼儀とは片方だけが要求するものでは無く、お互いに要求し合うものでも無い)
日馬富士自身が会見で口にした「礼節」とは、礼儀と節度の事らしいが、
日馬富士の行動には、相手に対する敬意も節度も全く無い。
会見では「礼儀を正す事は義務」「相手の為」と自己保身の為の言い訳を繰り返していたが、日馬富士は自分に従わない怒りの感情を発散する為に暴力を振るっただけだ。
相撲には詳しく無いが、横綱は「神」らしい。
横綱を神扱いしたり、やたらと品格とうるさいのは、「それ」を求められているからだ。
しかし、人間的に未成熟な人間が神扱いされると、
(期待されている)神としての振る舞い(品格)より、
その神としての強大な力を振るう快楽に支配されてしまう。
国のリーダーがそうであるように。
「敬意」とは強制させるものでは無く、自然に生み出されるものだ。
強制させるものは「服従」に過ぎない。
しかし、敬意に値しない人間程、(敬意を向けられないが故に)他からの「敬意」を求め、「服従」を強要する事になる。
それがいつの間にか「服従=礼儀」となってしまった訳だ。
特に集団(偏った団体や国家)が、その「すり替え」を利用して、
下の人間を駒として扱おうとする。
これは何千年も昔から使われている古典的手法だが、使っている側も使われている側も、いつまで経ってもそのすり替えに気付けない。
会見の発言から見て、日馬富士は全く自分のした行為を反省などしていない。
それどころか「正しい事をした」と主張している。
あくまで「相手が悪い」のだと。
ただ「少しやりすぎただけ」。
彼に罪悪感というものは全く無い。
だから何故世間が(この程度の事で)こんなに騒いでいるのか理解出来ない。自分は正義を行使しただけなのに。
これは分かりやすく言えば、テロリスト思考だ。
「相手が間違っている時(つまり悪である場合)、相手に何をしても それは正義だ!!」
という考え方。
「これ」は「差別やいじめ、パワハラ」等の根元的要因でもある。
「相手が間違っているのだから、自分が正さなければならない」
という猿の本能。
その「正しい・間違っている」の判断基準は、その人間個人の矮小な知識経験から導き出される。
だから、知識や経験が少なく、精神的に未成熟な人間程 簡単に自分を正義に設定しやすく、人間的に未成熟であるが故に簡単に正義に支配されてしまう。
そして、この「正さなければならない」という本能を満たす為に、(立場差がある場合)ほとんどの人間は、
「高度な論理」では無く、
「猿の時代の暴力(権力)」を選択する。
何故なら「それ」が簡単だからだ。
「論理」を使用する場合、
対象を明確に理解していなければならず、かつ対象を明確に説明出来なければならない。
それには、それなりの能力が必要になる。
例えば、
子供の時は、玩具や遊具を取り合ってケンカをするが、
大人になるにつれ言語・論理で問題を解決しようとする様に。
残念ながら、この世界に善や正義といったものは存在しない。人間が善や正義と呼んでいるものは、ただの自己満足。
ある記者が「不倫する人間が悪!」と自信満々に言い切って(自己正当化して)いたが、
悪を攻撃したからといって、攻撃した側が自動的に善や正義になる訳では無い。
悪を攻撃する事で金を儲けている(またはストレスのはけ口としている)違う種類の悪に過ぎない。
日馬富士に少しでも罪悪感があり、反省や(被害者に対する)謝罪の言葉があれば、多少は世間の同情も引けたかもしれない。
しかし彼の口から出た言葉は、自己保身の為の「自己中心の正義」と、当面 面倒を見てくれるであろう「直属の上司(達)に対する媚び諂い」だけ。
(被害者に対して謝罪してしまうと、彼が主張している大義名分(礼儀を正す)が嘘になってしまうので
(彼の中では、あくまで自分は正しい事をした。自分は悪くない。だから謝罪する必要は無い。という子供の言い訳)
彼は謝罪する事が出来ない)
彼の頭の中には自分の都合しかない。
一番が自分で、二番も自分、三四も自分で五も自分。
だから彼は「自分の衝動」に耐えられない。
今回の様な、
上に立っている自分に対して下の人間が服従しない事に激昂し、抵抗できない相手を攻撃する
という人間の習性。
(人間はどうしても猿なので、下の猿が上の猿に従わないと、社会が成り立たない、社会が崩壊してしまう。という本能が(未成熟な人間程)強力に働いている)
これを「個人の問題」という人間や、
「閉鎖的環境(相撲界)の問題」
「生まれ育った環境(モンゴル・日本の気質)の問題」
という人間もいるが、
これは人類全体の問題だ。
人類は猿から人間の方向に歩き始め、
随分長い間この壁を越える事が出来ないでいる。
この壁を超えようとする人間はいるが、人類全体がそれを許さない。
それに個人が超えた所で一代で途絶えてしまうので、人類的にはあまり意味が無い。