桜には、人間の本能を刺激する何かがあるようだが、特に日本にはそれを利用する人間達もいる。

自分達は見苦しく必死に権益にしがみつくが、

下の人間には「桜の様に美しく散る事こそが日本人の美学・美徳」だと洗脳し、自分達の都合のよい駒として仕立て上げようとする。

(自己犠牲の美徳を喧伝する者は、自分が犠牲になる気はさらさら無い。

だからこそ わざわざ周囲に強要しているのだ。

自分は犠牲になりたくない。だからお前達が(自己陶酔しながら)犠牲になれ。と)

特攻などはその典型。



どうしても人間は猿なので、(未成熟な人間程)「上の猿に従う事こそが社会を維持する唯一の手法」だと、頑なにそれを遵守しようとする本能が強く働いてしまう。


その本能を利用して戦前までは、

「上の人間の為に、下の人間が犠牲になる事が美徳であり道理(正しい生き方)」

という洗脳手法が横行し、権力者達が好き放題してきた。

(時代劇などはその典型。自分や家族の命を犠牲にしても主君に尽くす。「忠誠や義」などという上の人間に都合のよい抽象的概念。(宗教でいう信仰)

 自称愛国者達が愛してやまない「忠臣蔵」。(後先考えず)キレて相手を切りつける段階でまともな人間では無いが、その責任を取らされた事を逆恨みした配下の人間(類は友を呼ぶ)が集団で相手を殺害する。それを美談として語り継ぐ異常思想。

現代風に言えば、チンピラグループのリーダーがキレて暴行し、逮捕される。それを逆恨みしたチンピラグループが被害者を殺害。・・・一体どの部分が美談なのだろうか?

「加害者側が正義を主張し、被害者側を攻撃する」この構図。最近で言えば 日馬富士の暴行事件。

さすがに現代では事件扱いされるが、江戸時代であれば、問題視さえされなかったのではないだろうか)



戦後、多大な犠牲の結果と庶民の知識レベルの向上に伴い、ようやく大衆が権力者側から「駒・奴隷」として扱われている自覚が生まれ、民主主義やシビリアンコントロール(文民統制)等で、自分達の身を守ろうとし始めている。

しかし当然、権力者側からすれば「それ」はとても邪魔なものだ。

「使う側」から「使われる側」に追いやられてしまうので。

だから常に権力者側には「使われる側」から「使う側」に戻そうとする強い本能が働いている。