褒めるべきか、叱るべきか。
よく目にするが、それは「褒めると叱る」が理解出来ていないからだ。
『褒める』も『叱る』も、
実は、その本質は同じものだ。
人間は真逆のものだと信じ込んでいるが。
物事の表面しか見る事が出来ない人間は、
褒める = おだてる 相手を良い気分にさせる
叱る = 恐怖を与える 服従させる
などと盲信していて、本質を全く見ていない。
『褒める 叱る』とは、
『相手を見る(理解する)』
という事だ。
相手を見ていない人間が、本質から外れた見解(叱る 褒める)をした所で、
相手の心には全く響かず、逆に不信感や嫌悪感が生み出され、それが増幅されるだけであり、
本来の「褒める 叱る」の効果を生み出す事は出来ない。
褒めるか叱るかは、問題では無い。
相手を理解出来ているのか、理解出来ていないのか が問題なのだ。
「理解する」とは、よくある「叱った方が伸びる・褒めた方が伸びる」という様な タイプ分け を見極めるという意味では無い。(そもそも そんなものは存在しない。典型的な「手抜きの道具」)
分類でものを見るのは、相手そのものを見ていない証拠だ。
人間が分類でものを見たがるのは、それが楽だからだ。
人間は とても知能が低い生き物なので、物事を小さく区切らないと「何か」を理解する事が出来無い。
「分類」は広く浅く見る分には便利な道具だが、
本質を見極める時には邪魔でしかない。
例えば、日本人とはこういう人間だ。
という日本人または外国人のイメージがあるとする。
しかし、そのイメージに100%該当する人間など存在しない。
「極限まで考える(本質を考察する)」には、膨大な時間と処理を要求され、人間の脳にとって、とてもストレスがかかる。
分類とは、そのストレスを回避する為の思考停止・思考放棄でもある。
(ステレオタイプ・レッテル・色眼鏡・曇った目・偏見・宗教・〜らしさ なども分類の一種)
人間は一度 分類してしまうと、それを外せなくなり、
自分が「分類を通して対象を見ている」という現実を意識・認識する事が出来無くなってしまう。
「叱る褒める」も それであり、単純手法だけを採用し、真剣に対象を見ていない。
つまり、手抜きの教育の典型が 叱る褒める な訳だ。
(褒めたい・叱りたい は個人の欲望に過ぎない)
「怒る」事が指導者の仕事の一部だと信じ込んでいる人間もいるが、
「怒り」と「指導」には、何の関係も無い。
怒るだけで、生徒や部下が成長するなら、24時間365日怒鳴っているだけでよく、何の訓練も必要無いし、手法や論理も無駄で無意味という事になる。
指導の段階で怒りが発生するのは、「己自身の未熟さ」に他ならない。
(「怒り」は自分の能力不足から生み出される)
しかし未熟であるが故に それを自覚する事が出来ず、責任を転嫁する事でストレスを発散し、ストレスを軽減している訳だ。
「怒る」は「中身の無い指示(自己満足・思い通りにならないかんしゃく)」であり、正解に導く指導では無い。
逆に言えば「正解」が見えていない人間程かんしゃくを起こし、指導したつもりになる。
怒られた側は何の指導も受けてはいないのだが、怒られた事に触発され、結果的に自力で成長する(事もある)。
だから無能な指導者程、むやみやたらと怒鳴り散らす事になる。
生徒や部下は自力で問題解決したに過ぎないが、無能な指導者は「それ」を認識出来ず、自分の手柄・功績にしてしまう。
怒る・怒鳴る→自力で成長・自力で問題解決
それが「指導」だと学習してしまい、楽な指導(気取り)に味をしめてしまい、馬鹿の一つ覚えを繰り返す事になる。
長編小説の中の一文字だけを見て、その小説の全て
(歴史の一部分だけを見て、歴史の全て)
を理解する事が不可能な様に、
「何か」を理解する為には、その対象を観察するだけでは全く情報が足らず、
必ず「出来るだけ多くの その周辺の情報」が必要となる。
人間は「何か」を理解しようとする時、必死に(小さく区切った)その対象だけを認識しようとする
(小説の一文字が「海」だった場合、どんなに海という一文字を観察した所で、それ以上の情報を得る事は出来ず、推測する事しか出来無い)
が、
この世界の全てのものは、必ず「全て」と影響し合っている。
当然 人間は「全て」を認識する事が不可能なので、
自分の認知機能(世界(現実)を理解する能力)を向上させ、出来るだけ多くの(正しい)情報を集めるしかない。
何かを理解しようとする時、常に し続けなければならない事の一つが、
「自分の願望を排除する」
事だ。
人間(馬鹿)は自分の見たいものを見る。という言葉もあるように、
人間は「現実」よりも、「自分に都合の良いこじつけ」を好む。
(その典型が宗教)
人間は、
「こうでなければならない」 「こうあるべき」
という様な、正義や善に とても弱く、簡単に思考を放棄して こじつけ(つじつま合わせ)を始めてしまう。
「何か」理解しようとする時は、
あるがまま・ありのまま を見なければならない。
そこ(現実を直視する行為)に、
自分の感情・立ち位置・知識・経験・無知さ (現実を歪めて認識しようとするもの)
などは関係無いし、必要無い。