失望という傲慢

最近は少なくなったが、いまだにオリンピック選手に失望という意見を見かける。

失望していいのは、その本人だけだ。

他人に対して勝手に期待し、期待に応えなかったから失望する。

どれだけ自分勝手なのだろうか?

自分では何の努力も苦労もせず、他人の功績に期待し、その人間が成し遂げれば さも自身も成し遂げたかの様に達成感・満足感に浸る。

期待が外れれば「得られる筈だった達成感・満足感がその人間のせいで失われた」と逆恨みし相手に失望する。


失望とは自分自身に向ける概念であって、他人を評価する概念では無い。

それはその選手の指導者や応援者も同じだ。

選手の力になりきれなかった自身の無力さに対する失望であって、選手に対する失望では無い。


例えば、部下が仕事を失敗する。

それは無理な仕事をさせた自分の失敗であり、自分の責任だ。

例えば、10m以上の高さから地面に飛び降り、怪我をする。

それは「自分自身」の責任であって、「自分の体」の責任では無い。





『他人の苦労など、どうでもいい。自分で苦労しろ』

の様な言葉は 時代や国を問わず存在するが、

努力や苦労をしていない人間程、他人の功績に便乗・寄生しようとする傾向が強い。

(オリンピック・ノーベル賞美しい国・偉大な国・優秀な民族 等々はその典型。

自分に『アイデンティティー(自身で造り上げた確固たる自己)』を持っていないが故に『他(主に自身が属している集団)』にアイデンティティーを求める(という本能が強く働く)

子供(部下・弟子・生徒)に過度な期待をしたり、祖先にアイデンティティーを求めるのも それ)

努力や苦労をしていないから、他人の努力や苦労が理解出来ず、自身より遥かに努力している人間に対して、安易に応援し励まし失望する。

努力や苦労をしていないから、達成感・満足感が自力では得られず、故に達成感・満足感を渇望し、他人の功績に寄生してまでも、まやかしの達成感・満足感を貪(むさぼ)ろうとする。