特に最近の風潮なのか、何千年も昔からそうなのか分からないが、
責任をとる=職(役割)を辞する
という意味不明の慣習。昔で言えば 切腹 等。
「責任」とは、その「役割に就いた瞬間」から発生しているものであり、
自分に与えられた役割の範囲内で 不具合 が生じない様に努力・判断・行動しなければならない。
そして、自分の範囲内において不具合が発生した場合、その不具合を解消する為に行動しなければならない。
本来、その「不具合の予防・解消」が責任でなければならない。
職(役割)を辞する事や、切腹する事は、
「責任の放棄」以外の何物でもない。
問題が大きくなりすぎ、自分の範囲内では解決出来なくなり(責任をとりきれなくなり)、
その「責任の追求」から逃れる為に、
その役割から逃げているだけだ。
責任をとって辞めたんだから、もういいだろ!
という幼稚な逆ギレ。
最近で言えば、原発の再稼働や政策などで よく耳にするが、
原発事故や国民全体に影響を及ぼす政治 等において、
一企業や一議員ごときに、責任をとる事など不可能であり、
実質的に責任をとらされるのは、原発の周囲にいる人間達であり、国民全体だ。
だから役割を放棄し、責任を放棄し、逃げる訳だ。
「逃げる」事が許されているから、
どんな「無責任な判断」でも出来てしまう。
「責任をとって辞める」や「責任をとって辞めろ」などは、全く的外れな意見。そもそも責任という的自体が全く見えていない。
(引責辞任などという馬鹿な言葉も存在する。引責とは責任を引き受ける事。辞任は責任の放棄であって、引責とは真逆だ)
だから「責任」をとる事も、とらせる事も出来ない。
人類はそろそろ 責任 という概念を理解すべきではないだろうか?
勿論、ただ無能(その段階・役割において)な人間を役割に縛り続けたり、非難し続けた所で、問題が解決する訳ではない。(多少の抑止力にはなるかもしれないが)
だから人類は、
問題を解決する事の出来ない人間を外し、
問題をなんとか出来そうな人間を その役割に就ける。
という選択をしてきた訳だが、
それは最も低レベルな善後策(後始末)に過ぎず、責任をとる行為では無い。
それがいつしか、
職(役割)を辞する(交代させられる)=責任をとる
と、なってしまった訳だ。
責任をとりきれないから辞めさせられているだけであって、本人は一切 責任などとってはいない。
「辞める」事は「責任を果たす」事では無い。