愛は憎しみには変わらない

愛は憎しみに変わる という考え方があるが、愛は憎しみには変わらない。

そもそも人間が愛しているのは「自分自身」だけだ。

その「一番(唯一)愛している自分自身の欲望」を満たしてくれない(自分の思い通りにならず、欲望を満たしてくれない)相手を憎むだけ。

(予測(思考)の中で、得られる筈だった利益(快楽)を得る事が出来ず、(自分の予測の未熟さを棚に上げ)相手から不利益を与えられた と、責任の全てを相手に押し付けている訳だ)

つまり、そもそも相手を愛していないのだから、愛が憎しみに変わっている訳ではない。

人間は、自身の欲望を満たしてくれる対象(道具)を使用する行為を、「愛する」という名前で呼び、

「自身の欲望を満たす」という行為を誤魔化(錯覚・言い訳)しているだけだ。


例えば、(自分の意志で)自分を犠牲にして他者に利益を生み出したとしても、

それは「自分の欲望を満たしたい」という本能(自己愛)に従った結果に過ぎない。



人間の中にある 愛 とは、自己愛のみであって、自分以外の他者に対する愛など存在しない。


これが正確に理解(認識)出来ていれば、相手を憎む事にもならない。

ただ、自分の中から憎しみの感情(反応)が無くなる訳ではない。

あくまで「自分の欲望を満たしてくれない相手を憎む」という、自分の傲慢さ・自分勝手さ・幼稚さ に気付く事で、憎しみの感情が生み出されない というだけ。



愛し合う という概念があるが、

現実は、お互いの欲望を満たす為にお互いを利用し合っているに過ぎず、

自身の欲望を満たす行為が、結果的に相手の欲望(に近いもの)を満たしているだけだ。



自分の欲望を満たすだけで、相手の欲望を満たせない時、

それは、(相手や周囲から) 愛 とは認識されず、

おせっかい 自己満足 ストーカー セクハラ 痴漢 レイプ 強姦 等に分類される。



子供は、相手を使って自分を満足させようとし、

大人は、自分を使って相手を満足させようとする。

勿論、どちらも自分の欲望を満たす行為に過ぎないが。



例えば、A君とZさんが付き合って(結婚して)いる。

Zさんは別れたい(離婚したい)。

しかし、A君は別れたくない。

その理由は「愛しているから」。


これは全くおかしな答えだ。

何故なら、

「別れたくない」は、A君の欲望であって、Zさんの願いではない。


A君はZさんを「愛している」と口先では言っているが、

相手ではなく、自分自身を優先している。

つまり、相手を愛しているのではなく、

自分を愛しているだけだ。

(「相手」は「自分に快楽を生み出す道具」として愛しているだけ。これは「家族・友人・ペット・主従・国家・神 等も同じ」)



「(最も)愛する自分」の欲望を満たしたいだけなのに、

何故か人間は「相手を愛している」と主張する。


そして

「こんなに愛しているのに!!(実際は 自分を愛しているだけ)」

と逆ギレし、

「自分の欲望を満たし続ける関係を強要」

する訳だ。


これが、人間が

「愛が憎しみに変わる」

と思い込んでいる からくり だ。